親の介護 アルツハイマーの母から学んだこと その七
親の介護 アルツハイマーの母から学んだこと その七
妻から学んだこと きっと救いになる人は見つかるはず
身近にいて早くから母の「異変」に気付いた妻は必死に力になってくれる人を探しました。当時妻の叫びに耳を貸さず、私のせいで心に深い傷を残してしまいましたが、妻からは多くのことを学びました。
妻はひとりで抱えず、夫がダメなら他にいるはずとさまざまなところに相談しました。すぐには見つかりませんでしたが求め続けた結果、助けてくれる人、さらには専門家に出会えました。行政も親身になって相談にのってくれました。親身になってくれる人に出会えるまでいろいろなところに通いました。
民間にも相談にのってれるところがあります。今ではサイトもあります。良い専門家が見つかればアドバイスをくれます。心の支えにもなってくれます。共感、共有をしてくれます。
そうして我が家では専門家の力があって『最悪の事態』を回避できたと思います。
入院という選択
医師から「認知症の本人とその家族にとってのより良い選択」の話を聞き、私の迷い、ためらいは薄れていきました。完全に割り切れたわけではなくそれでも葛藤が続きました。しかし入院することが母のためにもなると思えるようになったのも事実です。妻と相談し私は入院を依頼することにしましたが、すぐというわけにはいかず空床待ちとなりました。いつになるかわからず急に明日ということもあり得るようで、いつでもすぐに来られるように準備だけはしておくことを言われました。さらに本人には、入院のことは告げず、いつもの通院のように連れて来るなどのアドバイスを受けました。
施錠された病棟
入院当日、いつもの診察と言って母と家を出ました。このころには月1回の通院に嫌がることはなく、むしろ普段あまり相手をしてくれない息子と一緒に出かけられることを楽しみにしているようにも見えました。相変わらず決まった場所を通ると「空襲の時にはここまで逃げてきた」と昔のことを語りました。
いつものように診察室に一旦は入りましたが、すぐに病棟へと案内されました。別棟へと歩きエレベーターに乗りましたが、普段と違うことに何かを察したのか「わたしゃどっこも悪くないで帰る」と何度も言い出しました。母の言葉に何も答えずただエレベーターの階数表示を見つめていました。やがて「5」の数字で止まり扉が開き、最初に目にしたのはもうひとつの扉でした。そこは外の人間もまた入院患者も許可がないと自由に出入りできない施錠された病棟でした。