人権は守られているか? 高齢者・障害者への人権侵害について②
どうすれば人権侵害はなくなるの?
人権課題の解決に向けて,国はどのようなことに力を入れていけばよいと思いますか?
内閣府がおこなった調査では
- 学校内外の人権教育を充実する……55.3%
- 人権が侵害された被害者の救済・支援を充実する……42.8%
- 地方自治体,民間団体等の関係機関と連携を図る……38.5%
- 人権意識を高め,人権への理解を深めてもらうための啓発広報活動を推進する……36.2%
- 犯罪の取締りを強化する……35.7%
- 人権課題に対応する専門の相談機関・施設を充実する……32.5%
- 人権侵犯事件の調査・処理や人権相談に関する人員を充実する……29.8 など
ではあなたは、どうすれば人権侵害・差別はなくなると思いますか?
以下の余白はあなたご自身が人権侵害・差別について思うところをまとめてみてください。
三つのお話をご紹介します。
1.「『徘徊(はいかい)』という言葉は使いません。」―愛知県大府市
愛知県大府市は、「徘徊」という言葉を行政文書や広報で、使用しないことを決めました。今後、「一人歩き」や「一人歩き中に道に迷う」など、状況に応じて言い換えるそうです。
「外出は危険という誤解や偏見につながる恐れがある」
「徘徊」という言葉は「実態にそぐわない」と認知症の当事者からも声があがってきています。認知症の人の外出は、目的や理由があることが多く、徘徊と表現することで「外出は危険という誤解や偏見につながる恐れがある」として市民や関係機関に理解を求めています。大府市のほか、すでに「徘徊」の使用をとりやめた自治体は複数あります。
認知症の男性の列車事故
大府市では2007年に、認知症の男性が列車にはねられて亡くなる事故があり、JR東海は遺族に損害賠償を求め、マスコミでも大きく取り上げられました。2016年、最高裁で「賠償責任はない」との判決が出されましたが、認知症の当事者やその家族をはじめ、現在そして今後において、多くの人々に共通する問題として、関心を集めました。
昨年12月大府市は「認知症に対する不安のないまちづくり推進条例」を全国で初めて制定しました。当事者の声や他の自治体の動きを踏まえ、今後、「徘徊高齢者」を「外出中に道に迷った人」などと言い換えるということです。
「認知症」も以前は別の言い方をしていました。表現や考え方などは変わっていきます。「障害」という表記も、「障害者基本法」をはじめ国の定める法律では「障害」としていますが、一部の自治体や障害者の組織・団体、また医療機関などでは、「障がい」「障碍」と言い換えるところも多くなっています。
また表現のみならず、「優生保護法」「らい予防法」など国の法律によって、差別・人権侵害を助長するようなこともありました。(「らい」という言葉も現在は使いませんが法律名なのでそのまま表記しました。)
失敗や過ちを経て、わたしたちは変わっています。苦しんでいる人たちの声を聞き、私たちは自らの手で変えていきことができます。この国の主人公は主権者である私たちです。
2.認知症の母親を介護する女性からのお話
私の母は病院も併設する介護施設にお世話になりもう10年以上になります。アルツハイマー型の認知症を発症し、自宅で世話をしていたのですが、私も働いており入所をお願いしました。ずいぶん迷いもありましたが、主治医から「本人と家族にとってのより良い選択を」というお話を伺い、入所を決めました。
すべての人にやさしく丁寧なスタッフ
母のいる病棟は認知症の人ばかりいるところです。会話もままならない人、また寝たきりの人も大勢います。それでもスタッフの皆さんは一生懸命に、すべての患者さんを『普通の人』として話しかけ、お世話をされていました。
申し訳ないのですが、私ははじめはそのような態度が白々しいとさえ思っていました。母の世話を家でしていた際には、「どうせわかっていないんだから」とついついおざなりなことしか言わなかったり、返事もせずに無視したり、また時には大声で怒ったりしていました。
しかしここの施設の人は、みんな患者さんを信じて丁寧に優しく声をかけてくれます。医師や看護士さんだけでなく、介護士さんや、清掃のスタッフも皆さん同じ応対です。この施設のスタッフが荒げたり、怒鳴ったりする声は聞いたことがありません。認知症の専門棟だから、時には大声を出して叫んだり、駄々をこねたり、怒って怒鳴ったりする患者さんもいますが、そういう人たちに対しても決して怒ることなく優しく諭すように話しかけます。
今までの自分が恥ずかしい
はじめは疑心暗鬼だった私ですが、何度か母の見舞いを重ねるうち「私は何もわかっていなかった」と気づき、自分の今までを恥じました。心の中ではスタッフの皆さんに感銘を受けていましたが、「とても自分にはここまでできない」という後ろめたさもあり素直に認められないでいました。この時、自らの「間違い」を自覚し、この施設のスタッフの対応の尊さを認識しました。また主治医の「本人にとって良い選択」という言葉を思い出しました。
母の見舞いには週に1,2回行くようにしていますが、その都度、スタッフの皆さんには頭が下がる思いでいます。病院ではいつも感動し、心洗われる思いで帰ってきます。そしてこんな私でも街で困っているようなお年寄りを見るとついつい声をかけ、優しくしてあげようという気持ちになってきます。
きっと私以外にも、そういう気持ちになる人はいると思います。他の患者さんの家族や見舞いの人にも、ここのスタッフの人たちの姿、精神は伝わると思います。それを感じた人がさらに次につなげる、心の連鎖、伝承になるんじゃないかなと思います。自分で看ているわけではないので、偉そうなことは言えないけど、せめてもの「ご恩送り」になるような気がします。
母が生きていることの意味
もう一つ最近気づいたことがあります。それは「命」についてです。
こんなことを考えるのは間違っているとはわかっていても、今までついつい「母が生きて続ける意味は何か?」と自分に問いかけていました。今、母が生命を維持するための栄養の摂取は「中心静脈栄養(IVH)」(※1)によるものです。状態は寝たきりで、話しかけても誰なのか、声が聞こえているのか、声に反応があるようには見えるけれどどの程度、認知しているのかなど全くわかりません。そんな母が生きる意味は何なのかの答えを私は見出せずにいました。
頬を伝う「ありがとう」の涙
早晩必ず訪れる『その日』への準備は必要です。「いつ病院からの連絡が入るかもしれないから」と「心の準備」も考えるようになりました。すると不思議なことに、母についての記憶や母が語った話などが浮かび、頭の中で母の生涯をたどることが多くなりました。そんなことを幾度と繰り返したある時、突然私の頬を涙が伝いました。今まで母のことで泣いたことなど一度もなかった私にとって、予期せぬ涙でした。それは同情や憐憫でなく「ありがとう」の涙でした。知らず知らず「お母さーん、お母さーん」と私は心の中で叫んでいました。
障害を持って生まれた母ですが、ハンディを一切口にすることなく普通に生活し、人一倍熱心に子育てもしてきました。私は母の障害のことを知ってはいましたが、気丈な母は普段、障害のことはおくびにも出さなかったので、私は気に留めることもありませでした。今思えば、きっと子には言えない、私には計り知れないものを母は抱えていたのだろうと思いますが、ほとんど弱音は吐きませんでした。しかしごく稀に私の前で母は「死にたい」と口にすることがありました。母の苦労を何もわからない幼いころの私には、それは最も辛いことでした。
思春期になり、子どもの前で死を口にする母を否定するようになりました。当時の私は、人として「死にたい」という言葉は最も言ってはいけない、特に我が子の居る場では絶対に発してはいけないと思っていました。その思いは成人し、自ら子どもを持つようになってからも変わらず、表面的には母へ感謝を口にしながら、心の奥ではわだかまり、さらには軽蔑の気持ちが「重い石」のように残っていました。
母を否定することは自分を否定すること
思いがけない涙を流しながら、心野中で「お母さん」と叫んだ日、一瞬に「私の世界」は変わりました。「親を否定するは己を否定することであり、だから自分も苦しいんだ、母がいなかったら自分もいない、産んでくれたのは母なんだから…」と当たり前のことが私の脳裏に次々と浮かんできました。さらに「『死』を口にしたのも、抱えきれないほど溜まった『荷物』を時には放り出さないと次に進めなかったんだ、私はそんなこともわからなかった」と気づいた瞬間、「何という罰当たりなことを母にしてきてしまったのか」という悔恨と、今まで母がしてくれたことすべてに対する感謝でいっぱいになりました。
今も母は『生きる』ことを教えてくれている
私が今、強く感じることは、最期まで自らの命を全うしようとしている母の『たくましさ』です。元気なころ母が言った「死にたい」という言葉とは裏腹に、「最期まであきらめず、命ある限り生きよ」とその姿が語っているような気がします。
心の支え、勇気を与えてくれる
そんな母から今も、私は「生きる」「命」など多くのことを母から教わり、授けられているように思います。何もわからずとも、何も語らずとも、母が生きていることだけで私にとって「心の支え」になってくれているのだと思います。今もたくさんの「勇気」を私に与えてくれていると思います。
こんなことを今さら思うようでは、私はいつまでたっても不肖の娘ですね。ごめんなさい、ありがとうございます。
※1「中心静脈栄養(IVH)」…中心静脈栄養は鎖骨・首・足の付け根にある太い血管にチューブを入れ濃い栄養を入れる方法です。消化器疾患などで腸から栄養の吸収が難しくなった場合などにとられる措置のことです。
3.「われわれに生存権はないのか」「殺されるのがしあわせなのか」
障害者が犠牲者となった事件
2016年8月相模原市の障害者施設で、その元職員が同施設の障害者19人の命を奪う凄惨な事件がありました。この事件がおき犯行理由が徐々に明らかになってきた際、「命の尊厳」を考える意味で、マスコミでよく引き合いに出された事件をここでもご紹介します。
母親による障害児殺害―拡がる減刑嘆願
1970年、横浜である殺人事件が起こりました。障害児2人を育てる母親が介護を苦に、2歳の女児をエプロンの紐でしめ殺しました。当時のマスコミは母親の犯行を日本の福祉施設の不備により起きた「悲劇」であると報じ、地元では母親への減刑嘆願運動が起きました。殺された障害児よりも殺した母親の方に同情が集まり、減刑を求める動きが拡がりました。
障害者から強い異議ー「われわれに生存権はないのか!」
これ対して、神奈川県の障害者団体から、殺された障害者の側、存在を否定された側から「われわれに生存権はないのか」「殺されるのがしあわせなのか」と叫び、母親が障害児殺害に至ったことを「福祉政策の問題として論点をすり替えるのはおかしい、社会の障害者への差別意識だ」とし強い異議申し立てをしました。障害者、障害児の人たちをどう見るか、人権をどう考えるのか、ひとりの人間としてどう捉えるのかなど、人間観を世に問いかけました。
殺人という「罪」を認め、情状酌量の「罰」
この事件で母親が不起訴処分または無罪になるか、起訴されて有罪となるかが注目されましたが、最終的には起訴され判決は有罪となりました。懲役2年の求刑に対し執行猶予3年という、殺人事件としては非常に軽い量刑となりました。「殺人」という「罪」の事実を認定し有罪とし、「罰」は抱える事情を考慮した判決となりました。
WEBワライフ「人権は守られているか? 高齢者・障害者への人権侵害について①」