【その他】新美南吉の文学 生誕百年目に再発見する南吉文学の魅力(平成25年夏号掲載)
新 美南吉の童話といえば、小学校の教科書で初めて出会った人も多いでしょう。「手袋を買いに」や「ごんぎつね」など、今でも国語の教科書に採用され続ける南 吉の作品は、単純に読んで楽しいといったものではなく、生きていく上での不条理や、避けられない悲しみがその背景にあります。書かれた文章の裏を読み解く と、南吉が本当に伝えたかったこと、つまり、暗闇の先にあるはずの希望の光を感じることができるのではないでしょうか?
今年生誕100年を迎える新美南吉の記念事業が、彼の生誕地である半田市で1年を通して開催されます。各種イベントの主要拠点の一つとなる新美南吉記念館の学芸員・遠山光嗣さんに、新美南吉文学の魅力、その背景にある生い立ちなどについて伺いました。
— 南吉生誕100年ということで、南吉の作品に再度脚光が当てられているようですね。
これは私の個人的な意見ですが、南吉作品は埋もれていた時期がない、というか、派手さはないけれど昔も今も老若男女作品を知っていて、人々の記憶に残っていますね。
南吉自身が、遺作となった未完の小説「天狗」の中で、自分と自分の作品を画家と絵画に擬(なぞら)えてこんな風に書いています。『又これからさき、私の名 がパツと花火のひらくやうに世にあがることはないだらうと思ひます。けれど、じぶんでいふのもへんですが、或る人達は、いつも私の繪を愛してゐてくれま す。これからさきも、その人達の愛はかはることはないと思ひます。(*1)』脚光を浴びるような流行作家にはなれないと南吉は自覚していたと思います。た だ、自分の描いた作品を長く愛してくれる人が必ず世の中にはいる、そういう作品を書いているという気持ちも同時に持っていたようです。また『私は、螢を見 ると、自分の繪に似てゐると思ひます。螢をとりまく闇_を現實にたとへるならば、螢が、それをたよりにして生きてゐる、あのかすかな_い火は、螢の夢でな くて何でせう。世の中に螢に心をひかれる人があるうちは、私のやうなものの描いた繪も、誰かに、靜かに愛されてゆくだらうと思ふのです……(*2)』とも 言っています。南吉は宮沢賢治の理想を追う姿にとても強い憧れを抱いていました。しかし彼自身は「人間の現実」から離れられなかった作家であり、人間の弱 さや醜さというものを前提に据えて、その向こう側のかすかな希望や善意といったものが主題になっています。
— 南吉と宮沢賢治は比較されることが多いですね。宮沢賢治の作品がファンタジーというか、どこか現実離れしているのに対して南吉の作品は地に足がついてるというか、土着性のようなものを感じますが。
宮沢賢治と南吉の共通点としては、夭折していること、死後に評価が上がったことや2人とも教師をしていたことなどがあります。南吉は賢治をとても尊敬して いましたが、2人の書こうとしていたものには大きな隔たりがあります。「僕の文学は田舎の道を分野とする」と日記に書いてあるとおり、南吉の作品は故郷を 題材にした非常に身近な、郷愁を誘うものが多いです。
— 代表作の一つ「ごんぎつね」ですが、人間の兵十と小ぎつねごんの、とても悲しい物語です。特にエンディングでは世の無常を感じてやりきれない気持ちになりますが。
南吉の作品は、悲しい物語が多いです。これは、本人の〝人間は一人で生まれ一人で死んでゆくものなんだ〟という認識に基づくものなんですが、そんな中でも 人間同士、お互いに心の通い合う瞬間はあるわけですよね。いつかは親とも死に別れなくてはいけないけれども、母と子の強い絆もあるわけです。そういったも のに触れた時の嬉しさ、人生は辛くて真っ暗な暗闇を手探りで歩いているようなものだけど、その向こうにかすかでも光を見出すことができればそれを頼りに進 んで行ける、言い換えれば光があると信じることで歩を進めることができる。南吉はそういう人々の希望の光になるような作品を書きたかったんだと思います。
— 南吉は雑誌「赤い鳥」でデビューしましたが、この雑誌は芥川龍之介や有島武雄など名だたる文豪が作品を寄せていますね。
南吉にとって「赤い鳥」は中学時代からあこがれの雑誌でしたが、投稿した作品が実際に載ったのは中学を卒業してからです。「赤い鳥」は全国から投稿を募集していました。
— ここから南吉の生い立ちについて伺いたいのですが、彼が4歳の時に母親が早逝し、父親が再婚して異母弟が生まれた後、養子に出されていますね。その後養子 方の姓のまま、また実家に戻されるという経験をしています。これは10歳未満の子供にはかなり精神的に負担が大きいと思いますが、この生い立ちが後々の南 吉の作品にどのような影響を与えていると思いますか?
そうですね。〝人間は孤独を背負って生きていくものだ〟とずっと南吉は思っていたのですが、その孤独のきっかけとなったのが母との死別、それと養子に出さ れたこと、この二つに起因するということは言えると思います。大きくなってからは結核を患いましたが、結核というのは人から避けられる病気なので、成長し てからも孤独は続いていくわけなんですね。あと、〝子供の頃に自分は充分に愛されなかった〟といったような満たされない思いがずっとあったようです。
— 上京し18歳で東京外国語学校に入学しますが、この頃より健康を害し、卒業後就職するも体調の悪化で帰郷を余儀なくされるわけですが、安城高等女学校で教鞭をとっていた時は生徒に大変人気があったそうですね。
そうですね。やっぱり女学生から見れば、20代半ばの若い、東京の学校を出た知的な長身の先生がいれば騒がれたと思いますよ。(笑)そもそも若い先生があまりいませんでしたから。
— 残念ながら、この安城高等女学校が最後の職場となりましたが…
亡くなる1ヵ月前にこの学校を退職しています。昭和17年の暮れまでは、休みがちですがなんとか学校に出てたんですが、18年に入って休職して最後の闘病に入り、それから3ヵ月後、昭和18年3月22日に咽頭結核で29歳で亡くなっています。
— 亡くなった後に彼の作品の評価が高まっていったわけですが、前出の「ごんぎつね」は小学校の教科書に続けて採用され、現在は小学4年の国語の教科書すべて に掲載されています。学芸会で「ごんぎつね」の劇をする学校も多いようですが、お話としてはとても不条理で悲しいお話で、非常に重いテーマを含んでいま す。これはこの年代の子供たちには、充分に理解するのが難しいのではと思うのですが。
理解できると思いますよ。でもそれは、授業のサポートがあってのことだと思います。この作品は学校の先生たちにものすごく支持されていて、教科書会社の人 がそれをよく感じるものですから、この作品は教科書から外せないそうです。先生たちがこの「ごんぎつね」をすごく支持してくださる理由の一つは、やっぱ り、手をかければそれだけのものが返ってくる、手ごたえのある作品だからだそうです。子供たちが、授業で繰り返し読んでいくことによって、ごんの気持ちや 兵十の気持ちを読み深めていくのを実感できると。先生の説明や友達の意見を聞いて、物語の読み取り方は一つじゃなく、子供たちそれぞれの育ってきた環境や 培ってきた経験で、ごんにすごく共感できたり、そうでなかったりして。文学作品というのは、一つだけじゃない、いろんな楽しみ方があることを知る面白さが あると思います。
— 最後に、生誕100年記念事業をきっかけに、南吉作品に再度触れる人、初めて出会う人にメッセージをいただけますか?
「ワライフ」の読者の中には、もしかして学校で「ごんぎつね」を習っていない方もいるかもしれませんが、昔出会った「ごんぎつね」を大人になって読み返し てみると、子供のころ「どうして?」と感じたところが「そうだよなあ」と共感できると思います。はじめての方はもちろんですが、子供の時に読んだ方もぜ ひ、もう一度「ごんぎつね」を読んでいただきたい。大人でも分かる、いや、大人だから分かるメッセージを南吉は書いています。そして「ごんぎつね」以外の 作品も読んでいただければ嬉しいです。南吉を生んだ半田を訪れていただいて、宮沢賢治が出身地岩手県花巻だけでなく、東北を代表する作家といわれているよ うに、みなさんの故郷である愛知県の作家として、南吉が認識されるようになれば嬉しい。この「新美南吉生誕百年記念事業」がそういうきっかけになればと思 います。
引用部分出典(*1・2) 「校定 新美南吉全集第六巻」大日本図書株式会社 1980年
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